ー 豆腐について ー
豆腐の歴史
History of Tofu
江戸時代初期の農民は
特別な日にしか
豆腐を食べられなかった
江戸時代初期、豆腐は将軍の食事に使われるような
ぜいたく品。江戸時代中期になるまでは、
農民は特別な日にしか食べられることができず、
製造も禁止されていたほどです。
麻婆豆腐のルーツは
100年前の成都に
顔にあばたがあるけれどとても魅力的なチャオチャオ
が作った料理が麻婆豆腐の始まり。「麻」はあばたと
いう意味、『麻婆豆腐』はあばたのおばさんの作った
料理という意味です。
アメリカ産とブレンド大豆から
作られる豆腐
現在日本の伝統食品豆腐は、アメリカ産との
ブレンド大豆が原料です。
ペリーにより欧米に渡った大豆が、いまや日本の豆
腐を支える原料になっているのです。
急場しのぎの知恵から生まれた
実だくさんのけんちん汁
ある日精進料理の豆腐が足りなくなり、困った僧侶は
智恵をしぼり豆腐をくずして野菜と煮込むことを
思いつきました。建長寺で作られたその「建長汁」が
けんちん汁の始まりです。
謎に満ちている「がんもどき
(ひりょうず)」の由来
がんもどきの材料はもともとはこんにゃく、一方ひ
りょうずは、もとは南蛮渡来のお菓子でした。この
二つがなぜ現在のような豆腐料理に変身したのか
は、まだ謎のままなのです。
江戸の大学者を育てた
滋養たっぷりのおから
儒学者徂徠は、豆腐屋から余ったおからをもらいうけ
長い貧困の時代も学問に打ち込むことができました。
後に出世した徂徠はその豆腐屋に深く感謝し恩返しを
したそうです。
江戸で評判だった
豆腐料理
儒学者徂徠は、豆腐屋から余ったおからをもらいうけ
長い貧困の時代も学問に打ち込むことができました。
後に出世した徂徠はその豆腐屋に深く感謝し恩返しを
したそうです。
馬琴が評した
京の豆腐料理屋
江戸より評判の良い京の豆腐料理屋でしたが、江戸びいきの馬琴は湯豆腐も田楽も「江戸には及ばず」と評しました。
しかし店内の雰囲気の良さには大変感心したようです。
乾燥大豆で作られる
豆腐の旬は?
豆腐用の秋大豆は「新豆」として年末から年明けに出回り、この時期は豆腐の旬でなめらかさに違いが出ます。
製造技術が進んだ現在、その差が分かる人は少ないでしょう。
豆腐の名前の
俗説、通説
「豆腐」の「腐」は腐るという意味ではなく、広く柔らかいものを指します。
「豆腐」は腐った豆ではなく、柔らかい豆と言う意味だというのが真相です。
西洋を豆腐の驚異に目覚めさせた
世界の「TOFU」
自然食品としてアメリカで大人気の豆腐カレー、ステーキ、デザートなど豆腐料理のバリエーションは数多く、
豆腐パワーはアメリカ人の食生活を変化させたのです。
僧侶たちが食べた精進料理の
主役は豆腐
「精進」とは心を込めて修行すること。
肉を食べられない僧侶たちの肉食に対する憧れから、きじ焼きやがんもどきなど、動物の名のついた
精進料理が多く見られます。
どじょうにとっては地獄?
ああ、幻の「どじょう豆腐」
「どじょう豆腐」とは鍋に豆腐とどじょうを一緒に入れて煮るもので、どじょうがその熱さに驚き
まだ冷たい豆腐の中に逃げこんだと言いますが、実は伝説上の幻の料理です。
田楽の名の由来
田んぼで太鼓に合わせて踊る田楽舞を職業にしていた田楽法師。白い豆腐に味噌をつけて食べる串焼きが、
彼らの衣装にそっくりなところからついた名前が「田楽」なのです。
豆腐のルーツは中国。
その発明者は?
豆腐の発明者は中国の劉安という王だという説がありますが、実際には劉安の時代には大豆は存在していません。
つまり豆腐の明確なルーツは謎のままなのです。
日本に豆腐の製造方法を
もたらしたのは遣唐使?
遣唐使が中国から豆腐の作り方を日本に持ち帰ったというのが豆腐伝来説として有力ですが、朝鮮からの捕虜を四国に連れて帰り豆腐を作らせた、という説もあります。
豆腐を擬人化したユニークな物語。
これをどう読み解く?
豆腐の由来を書いた中国の本『豆盧子柔伝』は達磨大師とその弟子の豆腐が登場人物の物語。
擬人化された豆腐から真意を読み取ることもまた楽しい、不思議な作品です。
しょうゆと豆腐の
深い関係
庶民の間に豆腐と同時に広まった醤油。醤油をかけて食べる冷奴や湯豆腐は定番で、安くて栄養のある豆腐とそのパートナーの醤油は、財政難の江戸時代に欠かせない食材でした。
豆腐のルーツをさぐる
中国で作られたという豆腐。日本には、奈良時代に遣唐使により仏教と共に伝来し、精進料理としてその栄養価が重宝されるようになると、江戸時代には一般に広まり始めました。
「豆腐百珍」って何?
江戸時代、料理の専門家でない文人が書いた『豆腐百珍』が出版され大流行。豆腐を使った料理を日常のものからちょっと変わったものまで百品紹介した、当時のベストセラーです。
おでんのルーツは
豆腐料理にあった
豆腐を串に刺して焼く「田楽」に「お」がついて「お田楽」、それが「おでん」になりました。
焼くより煮た方が効率が良いという事になって、現在のおでんの原形となったのです。
江戸時代の中ごろに日本人の生活に根づいた豆腐ですが、江戸初期のころには、まだ特別の日の食べ物でした。
特に農民にとっては非常にぜいたく品で、いつでも食べられるわけにはいかなかったようです。
「ハレの日」
農村では、祭りやお盆、お正月、あるいは冠婚葬祭などの特別の日にだけ豆腐料理が出されていました。こうした日を「ハレの日」といいます。
「晴れ着」や「晴れ舞台」というときの「晴れ」と同じです。今日の赤飯のように、改まった日に食する食べ物が豆腐だったのです。
このハレの日に対して普通の日を「ケの日」といいます。普段の食事ではどんなものを食べていたのかといえば、みそ汁や漬物、金山時みそと言ったものに限られていました。こうした質素な食卓が日常だった江戸初期の農民たちです。
それがハレの日になると、豆腐のほかに油揚げやこんにゃく、がんもどき、しいたけ、ごぼうなどが食卓にのぼったのです。
また、米や酒をいただけるのも、このハレの日ならではでした。
徳川家康と、その子の秀忠の時代には村々ではうどんやそばとともに、豆腐の製造も行ってはならず、農民がそれらを食べることも許されない禁令が出されていたほどです。
三代将軍・家光のときに出された「慶安御触書」には豆腐はぜいたく品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。
その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていたのが、資料からもうかがえます。
この豆腐がようやく庶民の食卓に普段の日でものぼるようになったのは、江戸時代の中ごろから。それも江戸や京都、
大阪などの大都市に限られていたのが実情でした。
豆腐を使った中華料理の代表格である麻婆豆腐が日本で一般に知られるようになったのは、
「料理の鉄人」としても名高い陳建一氏の父・陳建民の功績によるといわれています。
しかし、この料理の歴史は意外と浅く、誕生は清王朝末期の100年ほど前とされます。
麻婆豆腐の生みの親は、四川省の都・成都に住んでいたチャオチャオという女性でした。顔にあばたがあったことから「麻」と呼ばれ、
若くして夫を亡くした彼女が暮らしていた三軒長屋の両隣には豆腐屋と羊肉屋がありました。
豊富な材料に恵まれていたチャオチャオは、油かつぎの人夫たちに料理を振る舞い、その評判は成都中に広がっていきます。
もともと彼女はこの料理を「羊肉料理」と名付けていましたが、亡くなった後はいつともなく「あばたのおばさんの豆腐料理」と呼ばれるようになりました。
「麻」はあばた、「婆」は身持ちの固いおばさんを指し、麻婆豆腐とは「あばたのおばさんが考案した豆腐料理」という意味になります。
豆腐はビタミンEが豊富な油で調理することで、大豆に含まれるゲステニンの抗酸化作用が高まり、
唐辛子や長ねぎ、しょうが、にんにくなどの香辛料もその作用を高めます。
こうした材料を使う麻婆豆腐は、抗酸化作用にすぐれた料理として、健康志向の現代人にもおすすめできる一品です。
日本で消費される大豆は年間約490万トンにのぼりますが、国内産はそのうちわずか15万トンしかありません。
そのため、大豆の大部分はアメリカや中国、カナダ、ブラジルなどから輸入され、特に輸入大豆の約90%をアメリカ産が占めています。
一般の豆腐屋では、風味に欠けるとされるアメリカ産大豆と、品質が不安定で価格の高い国内産大豆とを混ぜたブレンド大豆を使用するのが一般的です。
例えば、60キログラム当たりの価格はアメリカ産が約4,800円であるのに対し、国内産は7,000円近くと割高です。
値段と品質の両面で一長一短があるため、加工業者は両者を混ぜて使用するのです。
こうした事情から、日本の伝統食品である豆腐・味噌・しょうゆ・納豆なども、現在では主にアメリカの大地で育った大豆を原料として作られています。
欧米で本格的な大豆の栽培が始まったのはわずか100年ほど前のことで、17世紀にドイツの植物学者が日本で大豆を目にしたのが西洋人と大豆との最初の出会いとされています。
江戸時代末期にはペリーが帰国の際にいくつかの大豆の種子を持ち帰ったとも伝えられています。
当初アメリカでは大豆は採油用として栽培されていたため、たんぱく質の量が国内産よりも少ないと言われた時期もありましたが、品種改良が重ねられ、
現在では食品用として豊かなタンパク質を持つ大豆が栽培されるようになっています。
だいこんやにんじん、里いもなどの野菜と、くずした豆腐を入れて作るけんちん汁。寒い冬の日に味わう熱々のけんちん汁は身も心も温めてくれますが、
この料理は偶然から誕生した一品であるのをご存じでしょうか。
発祥の地は古都・鎌倉にある建長寺といわれています。ある日、寺で法要が営まれていた際に、料理番の僧たちは予想を上回る来客のため、
精進料理の豆腐が足りないことに気付きました。困り果てた彼らは智恵をしぼり、豆腐をくずして野菜と一緒に煮込むことを思いつきます。
こうして急場しのぎで作られた実だくさんの汁物が大評判となり、「建長汁」と呼ばれるようになって広まったのです。これが、のちに「けんちん汁」となまりました。
ところで、豆腐発祥の地・中国にも「巻繊(けんちん)」と呼ばれる料理がありますが、こちらは細かく切った野菜とくずした豆腐を炒め、
湯葉で巻いて揚げたもので、汁物ではありません。けんちん汁のルーツを探ってみても、豆腐がいかに柔軟な食材であるかがよく分かります。
落語の「寝床」には、番頭の定吉が「がんもどき」の作り方を説明する場面が登場します。江戸時代には、豆腐屋が生揚げとがんもどきを大量に作るために家中が大わらわ、
といったくだりがあり、がんもどきは庶民に親しまれていました。
関西では「ひりょうず」とも呼ばれるがんもどきですが、実はこの2つはもともと全く別の食べ物でした。ポルトガル語の「フィロウス」に当て字をして「飛龍子」や「飛龍頭」と書くひりょうずは、
小麦粉やもち米をこねて油で揚げ、砂糖蜜にひたして上にこんぺい糖をのせたお菓子だったのです。現在のような豆腐料理ではなく、南蛮渡来のお菓子でした。
一方のがんもどきも、もともと豆腐ではなくこんにゃくが材料だったといわれます。味が雁の肉に似ていることから「雁擬(がんもどき)」と名付けられた説や、
精進料理の「糟鶏」というこんにゃく料理が俗に「がんもどき」と呼ばれたという説などがあります。南蛮渡来のお菓子がなぜ豆腐料理に変身し、
こんにゃくがどうして豆腐と入れ替わったのかは、今も謎のままです。
落語の「寝床」では豆腐屋の言い訳としてがんもどきが登場しますが、がんもどきもひりょうずも、その由来ははっきりとはわかっていないのです。
江戸中期の儒学者・荻生徂徠には豆腐屋にまつわる逸話があります。徳川綱吉の侍医だった父が処罰されて千葉に移り住んだため、
徂徠は収入もなく貧しい暮らしを余儀なくされました。江戸に戻ると、彼は豆腐屋の2階に住み、店で余ったおからを毎日もらって飢えをしのぎながら、
6年以上にわたってひたすら学問に打ち込んだのです。
やがて徂徠の著書が柳沢吉保の目に留まり、五百石の禄を受けるほど出世しましたが、彼は世話になった豆腐屋への恩を忘れませんでした。
徂徠は豆腐屋に下級武士2人を養えるほどの手当てである二人扶持を与え、深い感謝の気持ちを示したと伝えられています。
中国にも徂徠に劣らない清廉な暮らしぶりの役人がいました。宋代に青陽県の副知事を務めた人物はぜいたくを嫌い、肉が一般的だった時代に毎日豆腐を何個も買って食べていたといいます。
その姿から、地元の人々は豆腐を「副知事の羊」という意味の「小宰羊」と呼ぶようになり、中国で豆腐を別名「小宰羊」と呼ぶのはこの故事に由来しています。
徂徠のおからと青陽県の副知事の豆腐。滋養たっぷりのおからと豆腐にふさわしいエピソードは、今も語り継がれています。
江戸時代、豆腐料理は庶民に大人気で、多くの店が評判を呼びました。台東区根岸にある老舗「笹の雪」は元禄のころ京から江戸に来た初代が始めた店で、
江戸で初めて絹ごし豆腐を売ったといわれています。「笹の雪の絹ごし」といえば有名で、宮様が立ち寄って詠んだ歌から屋号が付けられました。
宮様はあんかけ豆腐のおいしさにおかわりしたと伝えられ、今でも笹の雪ではあんかけ豆腐を2杯1組で出しています。
両国橋の東詰には2軒の淡雪豆腐屋があり、相撲見物客でにぎわいました。淡雪豆腐はにがりを使わずに固めた口溶けの良い豆腐で、
雪のようにとろけることから名付けられました。赤穂浪士の討ち入りの際、吉良邸への討ち入りを見ようと集まった野次馬に淡雪豆腐が飛ぶように売れたといいます。
豆腐の田楽も江戸の庶民に親しまれました。荒川区南千住の真崎稲荷の境内には田楽茶屋が8軒並び、なかでも「甲子屋」が評判でした。
『南総里見八犬伝』の作者・滝沢馬琴もこの店の田楽をひいきにしたと伝えられています。また、遊郭のあった吉原では「山屋」という豆腐屋が名物となり、
歯の悪くなった老人にも食べやすい柔らかい豆腐が人気を博しました。笹の雪は吉原に近かったため、遊里帰りの客も多かったそうです。
江戸時代、京都で最も有名だった豆腐料理が祇園豆腐です。八坂神社の鳥居の左右に2軒の茶屋があり、西側の「藤屋」、東側の「中村屋」から「二軒茶屋」と呼ばれていました。
旅人が八坂神社を参拝すると必ずここの田楽を食べたといわれます。
二軒茶屋の田楽は普通1本の串を刺すところを2本の串で焼き、うなぎの蒲焼のように横にして焼き上げ、京らしく白みそを付けて供しました。
旅人はこの珍しい二本串と白みその風味に京の風情を感じ、「祇園豆腐」と呼ぶようになりました。西側の藤屋は明治末に閉店しましたが、東側の中村屋は「中村楼」と名を変え、今も営業しています。
京の名所として知られる南禅寺の湯豆腐も江戸時代から旅人に人気でした。大盗賊・石川五右衛門が「絶景かな」と手をかざした山門の近くにあり、
文人の大田南畝も京名物としてこの湯豆腐を挙げています。豆腐料理は江戸よりも京の方が有名でしたが、『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴は南禅寺の湯豆腐を「江戸の淡雪におとれり」、
祇園豆腐を真崎の田楽に及ばないと評しています。江戸びいきの馬琴は豆腐の味ではなく白みそが気に入らなかったようですが、
京の料理屋の造りや店内の雰囲気の良さには「江戸の及ぶところにあらず」と感心したと伝えられています。
現在では冷や奴など夏の代表的な食べ物となっている豆腐ですが、昔はおもに冬のものとして食べられていました。
豆腐が庶民に広まったのは室町時代で、それ以前は殺生のできない僧侶たちの食料として作られていたと考えられます。
初めて京都に豆腐売りが現れたのも室町時代で、奈良で作られた豆腐を京の路上で売っていました。夏場は運搬中に悪くなってしまうため、冬にしか行商できなかったのです。
豆腐用の大豆には夏大豆、秋大豆、中間大豆などの種類がありますが、もっとも多く使われるのは秋に収穫される秋大豆です。
10月に収穫された大豆は乾燥させて年末から年明けに「新豆」として出回り、新鮮な大豆で作ったこの時期の豆腐はなめらかな舌触りが特徴で、
豆腐の旬といえるでしょう。梅雨から土用にかけて大豆が古くなると品質が落ちるため、業界ではこの時期の大豆を「ひね豆」と呼んで「新豆」と区別します。
しかし、豆腐屋も大豆を浸す水の量を工夫したり低温倉庫で保存するなど「ひね豆」対策を行っており、貯蔵技術が進んだ今では、
新豆で作った豆腐とそれ以外の豆腐の違いを見分けられる人は少ないでしょう。
「豆腐」という字は「豆が腐る」と読めるため、昔の人は名前に違和感を抱き、豆腐と納豆の名前が中国から伝わる際に入れ替わったのではないかという説を唱えました。
大豆を腐らせるのは納豆であり、豆腐は豆乳を四角い型に「納めて」固めることから、その説には一理ありそうに思えます。
また、豆腐には「やっこ」という異名もあります。これは江戸時代、大名行列の先頭で槍を振った奴さんの紋が方形であったことから、
豆腐を四角く切ることを「奴に切る」といい、それがいつしか豆腐自体を指すようになったとする説です。そのほか、冷ややかな豆腐を「冷ややか豆腐」と呼んだのが「ひやっこい」→「やっこ」となまり、
のちに豆腐を指すようになったという説もあります。
中国では大豆を腐らせて豆腐を作っていたという説や、豆腐は納豆のような発酵食品の派生であるという説もありましたが、これらはいずれも誤りです。
「腐」の字の冠である「府」には「倉(くら)」という意味があり、もともと「庫」という字が冠になっていました。「腐」は獣肉を貯蔵している状態を表した字で、
初めは硬かった肉がやわらかくなって食べ頃になることから、のちにぶよぶよと柔らかいもの全般を指すようになりました。つまり「豆腐」とは「柔らかい豆」という意味で、
豆が腐るという意味ではないのです。
「おかべ」「かべ」「しろもの」「もみじ」など、豆腐の異名はほかにも数多くあります。名前の由来にまつわる俗説からは、昔の人々の想像力や豆腐への親しみがうかがえます。
世界中で野菜や豆類、穀類を中心とするベジタリアンが増え続けるなか、アメリカでは肉食による肥満や生活習慣病に悩む人々の間で、
低コレステロールで栄養価の高い日本食が注目されています。良質なたんぱく源である豆腐は「畑の肉」「骨のない肉」と呼ばれ、
300グラムの豆腐一丁に含まれるたんぱく質は約19.8グラムで、豚肉や魚とほとんど変わらないにもかかわらず低カロリーであることから、ダイエット食品としても人気を集めています。
自然食品を求める人々の間で豆腐の評価は急上昇し、アメリカの自然食レストランでは豆腐料理が欠かせない存在となっています。
豆腐をつぶして肉に見立てたステーキ「TOFU」はジューシーな肉のような食感で人気があり、このほかカレーやスパゲティソース、トーフサンドイッチ、トーフバーガーなど、
バリエーション豊かな豆腐料理が登場しています。さらに、豆腐のアイスクリームやチーズケーキといったデザートも評判です。
1975年にアメリカで出版されたシャートレフ著『ザ・ブック・オブ・トーフ』は10万部以上を売り上げ、ペーパーバックとなった現在でも人気を誇ります。
この本にはオードブルからメイン料理、デザートまで250種類ものレシピが紹介され、ニューヨーク・タイムズは「西洋を豆腐の驚異に目覚めさせた」と高く評価しました。
豆腐パワーがアメリカ人の食生活を大きく変えたのです。なお、アメリカの豆腐は日本のものより水分が少なく、やや固めであることも特徴です。
僧侶たちにとって、豆腐は今も昔も重要なたんぱく源です。精進料理では味噌や豆腐、ゆばなどの大豆製品をはじめ、しいたけや大根、ごぼうなどの野菜が多く使われます。
「精進」とは仏教用語で心を込めて修行することを意味し、不殺生の掟を守る僧侶は肉や魚を食べない厳しい生活を送ってきました。
現在のような精進料理が成立したのは鎌倉時代で、曹洞宗の開祖・道元は中国から戻って禅僧の食事を日本の風土に合わせるよう工夫しました。
道元は食事をすることも料理を作ることもすべて修行であると説き、禅宗の僧侶たちに豆腐を中心とした料理が定着していきます。
一方、浄土真宗を開いた親鸞は仏教徒にも肉食を許しましたが、近親者の命日には「精進日」として肉を食べないことを奨励し、精進料理が一般にも広まるきっかけとなりました。
江戸時代に中国から帰化した隠元は京都の宇治に黄檗山万福寺を開き、中国風の精進料理「普茶料理」を教え、これが京都を代表する料理の一つとなっています。
江戸時代に出版された『精進料理献立集』では掲載された献立の約9割に豆腐が使われ、中でも高野豆腐が多く用いられました。また、ゆばも92例中90例に登場し、
精進料理に欠かせない食材であったことが分かります。
精進料理には「きじ焼き」「しぎ焼き」「がんもどき」「たぬき」など動物の名を冠した献立が数多くあります。
肉を食べられない僧侶たちが肉へのあこがれを形にし、似た味や外見の料理に動物の名前を付けたのでしょう。
昔から珍しい料理として「どじょう豆腐」や「どじょう地獄」と呼ばれる豆腐料理の話が伝わっています。鍋に水を入れ、豆腐といっしょに生きたままのどじょうを入れて煮るという、
ちょっと変わった料理です。この料理のミソは、湯がわいてくるとどじょうが熱さに耐えかねてまだ冷たい豆腐の中にもぐり込んでしまうというところにあります。
豆腐も次第に熱くなるので、豆腐の中にもぐり込んだどじょうも一緒に煮えてしまうというわけで、この様子から「どじょう地獄」という名が付けられました。
周りからは湯豆腐を食べているようにしか見えないため、昔から肉食を許されなかった僧侶たちにとっては格好のごちそうだったと伝えられています。
豆腐に隠れてこっそり肉の味を楽しめるというわけです。
しかし現実にはこの「どじょう地獄」を目にすることはほとんどありません。多くの人が試みたものの、どじょうが豆腐の中にもぐり込むことはなく、熱湯を飛び散らせて踊るだけであったり、
水から入れてもすぐに煮えてしまうといった報告ばかりです。豆腐に穴をあけてみても中に入らなかったといいます。数年前にNHKでも取り上げられ、さまざまなタイミングで試したものの、
どじょうが豆腐にもぐることは一度もありませんでした。
「どじょうが熱さに驚いて冷たい豆腐に逃げ込む」という発想はユニークですが、どうやらこの料理は伝説上の幻の料理のようです。僧侶たちがこっそり楽しんだというエピソードも、
「こんなふうにしてどじょうを食べたい」という願望だったのかもしれません。
串に刺した豆腐を焼き、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそを付けて食べる田楽は、ひなびた懐かしい味として豆腐料理の定番です。この「田楽」という名前の由来は、
平安から室町時代にかけての農村の風習にさかのぼります。田植えや祭りのときに田んぼで太鼓に合わせて踊る「田楽舞(田楽踊り)」という行事があり、やがてこの舞を職業とする人々が現れました。
田楽法師と呼ばれた彼らは、白い袴に色のついた上着を身にまとい、竹馬のような一本棒に乗って跳ねたり踊ったりしました。白い豆腐に色のついたみそを付けて食べる串焼きが、
田楽法師の衣装にそっくりだったことから「田楽」の名が付いたといわれています。こうして豆腐の串焼きは「田楽豆腐」、略して「田楽」と呼ばれるようになりました。
この串焼き料理は箸や皿を使わず手軽に食べられることから、田楽法師のように村から村へと広まり、豆腐だけでなくこんにゃくや里いも、しいたけ、にしんなど、
さまざまな食材にバリエーションが広がりました。冬の料理としておなじみの「おでん」も、もともとは豆腐の串刺し、つまり田楽を指していたもので、
「お」は接頭語、「でん」は田楽の略です。こんにゃくを串に刺してみそを付けたものをおでんと呼ぶのはその名残だといわれています。
現在のように大根やこんにゃく、昆布、はんぺんなどを煮込んだ料理を「おでん」と呼ぶようになったのは江戸時代の終わりごろとされます。田楽踊りは姿を消しましたが、熱々の香ばしい田楽は、
今でも郷愁を誘う親しみ深い一品です。
現在、豆腐を食べる地域は中国から朝鮮半島、日本、さらに東南アジアにまで広がっています。日本と中国はともに「豆腐」と書きますが、
朝鮮半島では「トブ」、ビルマでは「トーフー」、ジャワ島では「トーフ」と呼ばれるように、多少の訛りはあってもほぼ共通した名称が使われています。
豆腐のルーツが中国であることは一般的に知られていますが、いつ、どこで、誰が発案したのかについては謎に包まれています。中国の古い文献には、
前漢時代に淮南王だった劉安が豆腐を作らせたと記されています。明代の李時珍が著した『本草綱目』に「豆腐の法は漢の淮南王劉安に始まる」とあるため、
「豆腐淮南王説」が広く普及しました。しかし、劉安の時代の中国にはまだ大豆が存在しておらず、彼の著作にも豆腐を示す文字は見当たらないことから、
この説には疑問が残ります。
『本草綱目』の影響から、「淮南」や「淮南佳品」という言葉が中国で豆腐の別称として残りましたが、実際には豆腐の明確な発明者は判明していません。
滋養に富む大豆をどのように食べるかを模索する過程で、豆乳という形がもっとも消化が良いことを経験的に知り、塩味を加えることで豆腐の原形が生まれたのではないかと考えられています。
つまり、現在のような製法が最初からあったわけではなく、試行錯誤の中でしだいに今日の豆腐が作られるようになったのです。
日本に豆腐の製造法が伝わった経緯については諸説があります。もっとも有力なのは、奈良時代から平安時代にかけて遣唐使として中国に渡った僧や学者たちが、
豆腐の作り方を教わって日本に持ち帰ったという説です。唐は当時の先進国であり、遣唐使の使命は進んだ文化や技術を吸収することにありました。その中には、味噌や豆腐などの食品加工技術も含まれていたのでしょう。
この中国からの伝来説とは別に、朝鮮から技法が伝えられたという説もあります。戦国時代の文禄・慶長の役で長宗我部元親が朝鮮から捕虜を連れて帰り、
土佐で豆腐を作らせたという記録が残っているためです。朝鮮の豆腐は一般に硬いのが特徴で、土佐の豆腐や石川県の堅豆腐も同じ系統に属すると考えられています。
どちらのルートにせよ、日本に伝わった豆腐ははじめ寺院で食べられ、禅僧の精進料理としてさまざまに工夫されました。室町時代末期にはかなり普及していたことが文献から推測されますが、
奈良や平安時代の文献に豆腐の記述はほとんどありません。平安の終わりごろに書かれた春日若宮の神主の日記に「唐府」と記されているのが日本最古の豆腐の記録です。
日蓮上人の手紙に「すりだうふ」とあるのも古い例ですが、13世紀頃の文献に豆腐をくずして加工した記述があることから、この時代には相当に普及していたと考えられます。
中国の古い文献に『豆盧子柔伝』という物語があります。ここでは達磨大師と、その弟子になろうとする豆腐が登場します。
達磨大師は紀元1世紀に南インドに生まれ、のちに中国に渡って禅宗の始祖となった人物です。物語ではすべての登場人物が擬人化されており、非常にユニークな作品となっています。
ある日、達磨大師のもとに弟子入りを申し出た豆腐の人柄を見抜いた師は、豆腐を皇帝に推薦します。その推薦の辞には「この者は身分は低いが潔白な性格で、混じりけのない心の美しさを持ち、
世間の者に比べて味加減が超越している。供え物のように高貴な者であるから、一度お使いになってはいかがか」といった表現が使われています。こうして皇帝に仕えることになった豆腐ですが、
豆腐が差し出したものを食べた皇帝の腹具合が悪くなり、やがて罷免されるというのが物語のあらすじです。
この作品の難しさは、表面的なストーリーから裏の意味を読み取るところにあります。豆腐が達磨に良い食品であると認められたことや、
豆腐は生姜と一緒に食べるとよいといった教訓は比較的分かりやすいのですが、擬人化された豆腐ゆえに全体の真意は難解です。
達磨がインドの豆腐作りを中国に広めたという説には疑問が残りますが、豆腐と達磨を登場させたことから、豆腐が禅宗の僧侶たちと深い関係にあったことが読み取れます。
物語はフィクションですが、擬人化に込められた真実を読み解く楽しさに満ちた不思議な作品です。
豆腐を食べるときに欠かせないのがしょうゆです。店で買ってきた豆腐を手頃な大きさに切ってしょうゆをかければ、それだけでちょっとしたおかずになります。
しょうゆが庶民に広く使われるようになったのは江戸時代中期以降で、それとともに豆腐も庶民の間に広まっていきました。
100種類もの豆腐料理を紹介した『豆腐百珍』が出版されたのは1782年で、この本に紹介された料理のうち、しょうゆを味付けに使ったものは44品にものぼります。
次に多いのが味噌を使った料理で18品です。味噌もしょうゆも日本料理に欠かせない調味料ですが、豆腐との相性ではしょうゆに軍配が上がるようです。
『豆腐百珍』にはさまざまな豆腐の食べ方が紹介されていますが、江戸時代の庶民にとって、しょうゆをかけるだけで手軽に食べられる冷奴が豆腐の一般的な食べ方だったようです。
また、冷奴と同じように手軽にしょうゆをかけて食べられる湯豆腐は冬の定番メニューでした。冷奴には生しょうゆ、湯豆腐にはかつおのだしを加えたしょうゆと、使い分けていたといいます。
こうしたこだわりに、江戸時代の人々の食への思いが感じられます。
江戸時代には財政難にあえぐ武士階級を救うため三度の倹約令が出され、その中心となったのが木綿と豆腐でした。木綿の服を着て安くて栄養のある豆腐を食べることで、
財政の立て直しが図られたのです。名パートナーのしょうゆとともに、豆腐は江戸時代の庶民にとってなくてはならない食材でした。
今や世界中で食べられている豆腐ですが、そのルーツは中国であると言われています。前漢時代に淮南王劉安が豆腐を作らせたという説が知られているものの、
この記述は16世紀の書物に基づくもので、他にもさまざまな説が存在します。
日本に豆腐作りの技術が伝わったのは奈良時代に遣唐使が中国と日本を往復した頃で、その際に仏教とともに寺院で使う食材として豆腐が持ち込まれたのではないかと考えられています。
ただし、文献に豆腐という文字が初めて現れるのは平安時代後期のことです。
鎌倉時代に禅宗が中国から伝えられると、修行の一環として肉や魚を避け、植物性の食品だけを食べる精進料理が広まりました。
不足しがちなタンパク質を補うため、豆腐が重宝されるようになったのです。江戸時代になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物だった豆腐が一般にも広まり、
当時の狂歌には「海屋に三里 豆腐屋に二里」と詠まれるほど、豆腐屋が多かったことがうかがえます。
1782年には100種類の豆腐料理を紹介した『豆腐百珍』が出版され大きな話題を呼びました。翌年には続編が、さらにその後には付録が出版され、
3冊合わせると約240種類もの豆腐料理が紹介されました。このことからも、江戸時代には現代よりも多彩な豆腐料理が食べられていたことが分かります。
日本の文献に初めて「豆腐」という単語が現れるのは平安時代末期、奈良の春日神社の供物帳に「唐府」と記されているのが最古の例とされています。
豆腐料理の名前が登場するのは江戸時代初期に書かれた『大草家料理書』で、その後1782年(天明2年)に100種類の豆腐料理とその作り方を解説した『豆腐百珍』が出版されました。
『豆腐百珍』の著者は醒狂道人何必醇という筆名で知られており、実際には篆刻家の曾谷学川ではないかとされています。料理の専門家ではない文人が趣味で書いたこの本は大ベストセラーとなり、
翌年には『豆腐百珍続編』が、さらに『豆腐百珍余録』が出版されました。
一つの食材で100種類の料理を作るという趣向が人気を呼び、その後『鯛百珍料理秘密箱』や『甘藷百珍』などの本も出版されました。『豆腐百珍』では料理を6つの部に分け、
前半3つは日常的な料理、後半3つは少し変わった料理を紹介しています。後半部分には「蜆もどき」「香魚もどき」「精進の海胆田楽」など「もどき料理」が含まれているのが特徴です。
当時は「なまぐさもの」と「精進もの」を食べ分ける習慣があり、肉や魚に似せた「もどき料理」が必要とされたのです。
『豆腐百珍』に載せられた料理の調理法を見ると、煮る、蒸す、ゆでる、焼く、揚げる、炒める、生と実に多彩で、現代よりも豆腐が幅広く食べられていた時代だったことがうかがえます。
江戸時代の豆腐料理本『豆腐百珍』では、100種類の豆腐料理のうち20品が豆腐を焼いて作る料理で、そのうち14品が田楽です。
十返舎一九の『東海道膝栗毛』でも、主人公の弥次さん喜多さんが旅の途中で口にしたものの中で一番登場回数が多いのが田楽だと伝えられています。
田楽は豆腐を四角く切って串に刺し、味噌を塗って焼いた料理です。その形が田植えの際に豊作を祈って舞う田楽法師の姿に似ているところから名付けられました。
この田楽に敬称の「お」を付けた「お田楽」が、いつしか「おでん」と略されました。
その後、材料を串に刺して味噌を塗って焼くよりも、味噌で煮た方が効率が良いということになり、こんにゃくや大根、昆布、はんぺんなどを煮込む現在のおでんの原形が生まれました。
江戸の庶民は豆腐を焼いて作る田楽の美味しさを知っていましたが、手間がかかり煙や匂いが出ることから次第に廃れていったのかもしれません。
それでも、大豆の香り豊かな焼き豆腐を味わうと、改めて豆腐のおいしさを実感できます。
手軽に焼き豆腐を楽しむなら、スーパーで焼き豆腐を買うのも良いでしょう。また、木綿豆腐をよく水切りし、串を刺して火から遠く離してゆっくり焼けば、
香ばしい焼き豆腐が出来上がります。