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江戸の大学者を育てた滋養たっぷりのおから

荻生徂徠

江戸中期の儒学者として大きな足跡を残した荻生徂徠に、豆腐屋にまつわるこんなエピソードがあります。

荻生徂徠とは…

徂徠の父は、徳川綱吉の侍医だった人物。しかし、父が蟄居を言い渡されて千葉へと移り住みます。江戸に戻ってきたのはその13年後。そのころの徂徠は収入らしい収入もなく、貧しさの中でひたすら学問に打ち込む毎日を送っていました。 その徂徠が住んでいたのが、豆腐屋の2階です。毎日、店で余ったおからをもらいうけ、飢えをしのぎながら江戸で6年あまりを清貧のうちに学問にいそしんでいたのです。

やがて徂徠が書いた書物が柳沢吉保の目にとまって仕えることになり、五百石の禄をもらう身分に出世します。その後は儒学者としてさらに学を修め、将軍・綱吉にも学問を講義する身分にまでなりました。

こうして世に出た徂徠は、むかしの恩を忘れることなく、世話になった豆腐屋に二人扶持を与えて、深く感謝の気持ちを表わしたといいます。二人扶持とは、下級武士2人を養うほどの手当てですから、豆腐屋にとっては大きな恩返しを受けたことになります。 この徂徠に負けない清廉な生活を送った役人が中国にもいました。宗の時代、青陽県の副知事だったその役人は、ぜいたくを嫌って清貧を尊ぶ人物でした。

当時の中国では羊肉を食べるのが一般的でしたが、そのお役人は羊肉の代わりに毎日豆腐を何個も買い求めて食べるのを習慣にしていました。これを知った青陽県の人々は、いつしか豆腐のことを“副知事の羊”という意味で「小宰羊」と呼ぶようになったのです。中国で豆腐のことを別名「小宰羊」と言うのは、こんな故事に由来しているのでした。

徂徠のおからと中国の副知事の豆腐。滋養たっぷりのおからと豆腐にふさわしいエピソードとして、今も語り継がれています。

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